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序論
「言葉はある群体の世界観と価値体系を反映する鏡のようなものである」と言われている。国家、民族の伝統と文化によって、人々は客観の世界に対する体験と表現の方式が違う。それによって、言葉の表現の習慣も違うようになっている。その習慣はふだんその民族に注意されていないようであると思われる。しかし、ほかの民族の人に悖れると、受け入れないと思う。したがって、外国人との交流がうまく行かないと思う。だから、「ただ言葉の能力によって、文化の隔たりを補うことができない。」「もし、ほかの民族の言葉を運用する前に、その民族の思想と価値観をよく理解すべきである。」
滨屋方子氏(1991年)は「どうぞよろしく」と「お世話になりまして」二つの挨拶表現をめぐて、中日言葉表現の違いを考察する。それによって、「中国人は個人主義的で、日本人は集団主義的である」[滨屋方子「どうぞよろしく」と「お世話になりまして」――二つの挨拶表現をめぐる一考察、日本語学論証資料、1991]と言っている。また、王秀文氏(2005年)は人と会う時、中日両国の人の挨拶語をめぐて、考察している。中国人はよく相手に「ご飯を食べましたか」と聞く。日本人は「おはようございます」或いは「今日は暑いですね」とあいづちを打つ。それによって、日本人は中国人より、群体意識が強いと言われている。以上の研究はただ挨拶表現をめぐて、中日言葉表現の違いを考察するものである。しかし、「日常表現」によって、日本語の言葉表現には大体命令、禁止、推量、依頼、意志など、16種ぐらいがある。その面から見ると、以上の研究はただ挨拶語についての研究にすぎない。それはまだ足りないと思う。ほかの面はどうだろうか。